石巻(いしのまき)は、宮城県石巻市の大字であり、旧牡鹿郡石巻村の一部、旧牡鹿郡石巻町石巻の一部に相当する。郵便番号は986-0000。住居表示未実施で住所では石巻のあとに小字名が続く。
地理
小字
仙台法務局石巻支局の「石巻市登記所備付地図データ」(2024年10月5日時点)およびデジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2024年8月13日時点)および運輸局公表の「東北運輸局宮城運輸支局住所コード表」(2024年11月1日時点)によれば、石巻の小字は以下の通りである。
明治期の小字
宮城県各村字調書によると明治17、18年頃の石巻村の小字は以下の通りである。
住居表示前の小字
1988年石巻市発行の「石巻の歴史」によれば住居表示前の石巻の小字は以下の通りである。
歴史
史料上の地名の初見は天正17年(1589年)4月29日付の平塚越前守あての葛西晴信香炉印文書にある
とされる。
江戸期、石巻村には石巻町という町場が形成された。石巻町は本町、中町、横町、裏町の四町および村分の新田町から構成されていたが、実態は石巻町と石巻村端郷住吉の住吉町と蛇田村の蛇田町が相接して一つの町場を形成していた 。
石巻町は仙台藩の行政体系では石巻村の中の町であったが、石巻村の住民のほとんどは石巻町の町屋敷に住んでいた。
以下、石巻町を構成していた四町と石巻村の村分である新田町について解説する。札場が置かれて石巻町の中心地となっていた本町は石巻町のなかでも最初に開かれた町で葛西浪人米谷氏が開いた町であるとされる。本町には札場や藩の米蔵など公的施設が設置されていた。なお、本町は現在の中央一丁目に相当する。本町の次には中町が信濃国出身の松本但馬兼満により開かれた。中町は街区全体が小運河で囲まれており、石巻代官所が置かれた 。なお、中町は現在の中央二丁目に相当する。中町の次には裏町が開かれた。裏町の地名の初見は元禄11年(1698年)の書上で石巻町の発展とともに街道沿いの街区として形成されたものとされる。なお、裏町は現在の中央二丁目に相当する。横町は中町から蛇田町を経て鹿又方面に向かう街道沿いに発達した町で住吉町の補完的な町として発展したと考えられている。なお、横町は現在の千石町に相当する。新田町は石巻村の村域に設置された町で、石巻町設置当初は新田町の地区に街区を設ける計画がなかったことから石巻村の村分となったものの石巻町が当初の町場を越えて発展したため、新田町にも街区が設けられたとされる。
石巻町は西廻り海運の酒田港と並ぶ東廻り海運第一の港町として繁栄し、藩経済の中心地となった。
牡鹿郡万御改書上によれば元禄年間の石巻村の村高は242石余、人口は2,377人で安永風土記によると安永期の村高は田代14貫余、畑代12貫余で計26貫余、家数724(うち借家500・御仮屋1)、人口2,969人、馬29、舟は61隻であった。
現在では1966年5月および1984年9月の住居表示実施により、かつての大部分が整理・改称された 。
沿革
- ※新暦導入以前(明治5年以前)の日付は和暦による旧暦で表記する。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦。
- 文化年間前後 - 立町および穀町が成立する。
- 明治元年 - 高崎藩取締地となる。
- 明治2年
- 7月20日 - 桃生県に所属。
- 8月13日 - 桃生県が石巻県に改称。石巻村は県庁所在地となる。
- 明治5年
- 宮城県に所属。
- 石巻村が第13大区小1区に属する。
- 1874年(明治7年) - 石巻村が第7大区小1区に属する。
- 1876年(明治9年) - 石巻村が第5大区小3区に属する。
- 1882年(明治15年) - 石巻村と湊村を結ぶ内海橋が開通。
- 1889年(明治22年)
- 石巻村、門脇村、湊村が合併し、石巻町が成立。石巻村は石巻町石巻となる。
- 2月 - 蛇田村より編入した蛇田町に遊郭を設けるにあたって、蛇田町を旭町と改称する。
- 1933年(昭和8年)5月1日 - 牡鹿郡石巻町が市制を施行。それに伴い、石巻町石巻は石巻市石巻となる。
- 1966年(昭和41年)5月1日 - 域内の一部で住居表示実施。それに伴い、鋳銭場や穀町などの町丁が分離独立する。
町名の変遷
住居表示による町名の変遷は以下の通りである。
地名の由来
石巻の地名の由来には諸説ある。
江戸時代後期の地理学者である村岡良弼が天保10年(1839年)に地理志科で提唱した説では日本書紀第十一巻仁徳天皇条にある伊寺水門(いしのみなと)が石巻の由来であるとしている。村岡良弼は地理志科で湊村がかつての伊寺水門にあたり、石巻は伊寺の牧つまり放牧地であったと解説している。なお、伊寺水門の由来について菊池勝之助は宮城県地名考で、かつて伊寺川と呼ばれていた迫川は石巻付近に至って海に注いでいたため、湊の地は伊寺川の河口、つまり伊寺水門と名付けられたと解説している。ただし、この説については一部で「石巻」の地名は戦国期まではさかのぼっても古代までさかのぼる地名とは考えられないとの見解もある。
封内名跡志には
とあり、住吉社のほとりにあった巨石(烏帽子石と呼ばれていた)で河水が渦を巻いて流れていたという故事が地名の由来であると記している 。
このほかに牧山の古称である「石巻山」「石繞山(いしまきやま)」からとする説や、[鮭鱒の収穫が多いところを意味する「イソ・マシュキニ」または岬の開けたところを意味する「エサン・マッケ」などのアイヌ語の転訛からとした説もある 。
地名の由来に関して、大日本史では武甕槌が石船に乗って石巻の地に来た際に大碇を捲いて投げたということから、石巻と呼ばれるようになったという伝説が記載されている。
人口
2024年(令和6年)12月末時点の石巻市の住民基本台帳による石巻の人口及び、世帯数は以下の通りである。
関連項目
- 石巻 - 曖昧さ回避。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史通史編(下の1)』 2巻、石巻市、1998年3月31日。
- 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史通史編(下の2)』 2巻、石巻市、1998年3月31日。
- 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史民俗生活編』 3巻、石巻市、1988年3月31日。
- 牡鹿郡役所 編『牡鹿郡誌』中村安孝、1975年9月19日。ISBN 4653014566。 NCID BN03238875。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302。
- 「自治省告示第16699号」『官報』本紙16699号、大蔵省印刷局、1982年9月28日。https://search.kanpoo.jp/r/19820928h16699p15-36/#石巻字。2025年1月24日閲覧。
- 菊池勝之助 編『宮城県地名考 地方誌の基礎研究』(更新版)鈴木武夫、1972年6月15日。 NCID BA47356935。
外部リンク
- 石巻村 (040000207700) | 『日本歴史地名大系』地名項目データセット - Geoshapeリポジトリ
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